子供らの生きる力を奪うもの [学校教育]

 今、文部科学省は、画一暗記教育ではなく、考える力を育てる教育に方針転換しようとしていますが、
遅い、遅すぎるほどです。
自分で考えない、支持待ち生徒、若者が非常に多くなっています。
どうして、そうなるのか、過保護すぎる学校教育が大いに責任あるのではないか、と危惧しています。

 例えば、中学高校では中間期末の定期試験があります。それによって成績評価をするわけです。

ところが学校や教師によっては、試験範囲に非常にこだわる人と余りこだわらない人がいます。
こだわる人は一語でも試験範囲を逸脱した問題はダメだ、生徒が試験範囲で勉強したのに、それ以外の
問題を出したら、生徒にウソをつくことになる、裏切ることになる、可哀想だ、というのです。
金科玉条のように試験範囲を守れというわけです。
更に試験範囲だけれども授業で扱ってない、直に教えてない問題は出さない、それが、生徒を大事にしていることと思っています。

別の学校は、試験範囲はある程度守るが、応用問題も出すし、多少の範囲外の問題も可としています。
先生が出す問題だから、範囲の外だからといって生徒に不平不満は言わせないという雰囲気があります。
試験範囲は広く、授業中に直に扱えないページも多いのですが、それは範囲なのだから、生徒自身が当然自主的に勉強すべきというのです。

例えば、英語の場合、高校一年の英語の範囲は最近習った範囲のほかに、語学は積み重ねという学問ですから、当然、中学3年間の英語の範囲も入ってきます。
たとば、I am a boy. は高校の教科書にあるから良いが I am a girl.は教科書にないから外すべきというのは語学としておかしなものです。
中学で既に習った英語の上に高校の英語があるのですから。

たとえば、数学ですと、かけ算とわり算の試験範囲だから、その前に習った足し算と引き算は絶対に出すべきではない、みたいなことです。

前者の試験範囲を金科玉条とする学校をAとして、後者の応用問題や範囲外の問題も可とする学校をB
としましょう。

A校は、一見、生徒を大切にしているように見えますが、実は違うのではと思います。
生徒の応用力、生きる力を奪っているのではないかと思えるのです。
生徒は、先生が何でも自分たちの都合の良いように動く人々、と考え、先生は生徒の為には何でもやるよ、と奔走しています。奴隷ではないが、バカ正直にパシリのように頑張ります。
だから一生懸命にやっている割に生徒にバカにされることもあります。都合の良い大人だからです。

しかし、生徒は社会に出たときに、過保護に守ってくれる大人ばかりではないことを知って愕然とするでしょう。
世間や社会は理不尽なことばかりですから。会社に行けなくなる場合もあります。
いわば応用問題ばかりなので、それに耐えて生き抜いていくことは相当厳しくなります。

B校は、生徒のいいなりにはならないよ、先生は教える立場だから違うのだよ、という先生が多いので、生徒も馴れていて、世間に出てもそれほど驚かないわけです。

A校は生徒と先生が対等か、先生が生徒以下の立場でサービスマンとなっています。
なんでも先回りして生徒の為に動くので生徒は学校にいる間は安心かもしれません。

B校は生徒より先生が教えるということでは上の立場ですから、生徒も先生を尊敬しています。
(内心はどうかはわかりませんが一応、建前としては)
だから、学校において大人や社会の代表である先生は、試験において、
どんな難問を出すかわからないと予想する力があります。

危惧することとしては、決まりを守るだけの応用力のない生徒と先生は、今の時代は危ないということです。
天変地異、政治経済の異変、激動の時代に、規則と規律を遵守するだけの生徒と先生が、市からの命令だから、校庭におればよい、と判断し、そのまま津波に飲まれたことは記憶に新しいことです。

今のような学校教育では、生き残る力を与えることは難しいように思います。

何が起きるかわからない時代に決まりを守るだけではなく、勉強を通して生徒の応用力を鍛えることで、時代を乗り越える力、生き抜く力を伸ばしてほしい、と思っています。

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