女人禁制を破った側室 [歴史]

土俵に上がった女性の看護師さんを「土俵は女人禁制だから降りなさい」と放送した行司が責められています。
命よりも伝統が大事かと責められていますが、危急存亡の時は規則よりも命が大事という判断ができないとこうなるのですね。
 あの大川小学校の場合も校庭に避難していれば良しとした危機感のない判断が悲惨な結果を招いたことを考えると杓子定規は
ダメとわかります。
 ところが江戸時代の初期に女人禁制を破って称えられた女性がいました。
家康53歳の時に15歳で側室になったお万の方は非常に苦労した信心深い女性でした。信心深い義父を尊敬して自分も熱心だったので、家康と宗教問答で争った日遠上人を守り、上人様をはりつけにするなら、まず私をと白装束で向かったのです。
彼女は家康の死後、供養のために鬼門に寺を遷し、自分も二千メートルもの七面山に供養登山したのでした。
・・・・水戸黄門の祖母にあたる女性です・・・
「「伊豆で成長した万は慶長元年(1596年)頃、家康に見初められ側室となった。万は慶長7年(1602年)3月に長福丸(後の徳川頼宣)を、さらに翌年8月に鶴千代(後の徳川頼房)を生んだ。1615年家康が亡くなる前年、お万は静岡市に蓮永寺を創建する。
このお寺は富士川町にあった芳樹院を熱心な法華経の信者であるお万が駿府城の安泰を祈願し、
城の鬼門にあたるこの地に移したものです。お万の直筆も残っています。また、お万の立派な供養塔も建っています。
1616年家康死去。家康の死後3日経った後、駿府寺町の感應寺で髪を下ろし養珠院と号した。
そして家康の3回忌が蓮永寺で営まれたとき、養珠院は自分が家康からもらった器物の類をこの寺に寄進いたいました。
そして、七面山の麓にある白糸の滝で水行され、それまで女人禁制であった七面山に登られました。
女人禁制を解いたことを永くたたえる為に銅像がたてられています。」」
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